総合研究大学院大学・国立民族学博物館名誉教授
出口 正之MASAYUKI DEGUCHI
略歴
大阪大学人間科学部人間科学科卒業。ジョンズホプキンス大学国際フィランソロピー研究員、公益財団法人サントリー文化財団主任研究員、同事務局長を経て、総合研究大学院大学教授、国立民族学博物館教授。現在、両機関の名誉教授。政府税制調査会特別委員、内閣府公益認定等委員会委員、ISTR(国際非営利研究学会:本部米国501C3団体)会長、国際Journal Voluntas編集委員などを歴任、現在、大阪府公益認定等委員会委員長、国際非営利会計基準(IFR4NPO)策定委員メンバー、公益財団法人助成財団センター理事長、『公益・一般法人』編集委員長等を務める。主な著書に『公益認定の判断基準と実務』、『フィランソロピー 企業と人の社会貢献』、編著に『会計学と人類学のトランスフォーマティブ研究』、Civic Engagement in Contemporary Japan:Established and Emerging Repertoiresなどがある。
1.復活した古語としての「フィランソロピー」
「フィランソロピー」という用語はギリシア語のフィル(愛する)とアントロポス(人類)を語源する単語であり、社会のための寄付等を意味している。ただし、今日のように一般的に使用されていたわけではない。この用語は、チャリティという同義の用語に長らくとってかわられていた。
もっとも狭義には助成財団の助成活動のことを指すこともある。というのも、この古めかしい用語を米国でわざわざ広げたのは、ジョン・D.・ロックフェラーであり、ロックフェラー財団の理事長のフレデリック・ゲイツという人であったからだ。当時の助成財団の一般的な支援活動は、貧者に直接食料を提供したり、病人に直接薬や医療を提供したりする活動がほとんどであった。これに対してロックフェラーの活動は、なぜ貧困が生まれるのか、なぜ弱者が誕生するのかの根本を解決することの方がより多くの人を救えるという観点から行われていた。前者の従来の手法を「小売りのチャリティ」、後者の手法を「卸売りのフィランソロピー」と呼んで区別し、財団の事業は科学的な「卸売りのフィランソロピー」を目指すべきだと主張したからである。
ロックフェラー財団はこの手法によって、後に「緑の革命」と呼ばれる農業生産の飛躍的拡大に貢献し、多くの人を飢餓から救うことになった。このことから「卸売りのフィランソロピー」の考え方が他財団の助成プログラムの在り方として大きな影響を与えることになったのである(1)。したがって、この用語はその幅広い意義ではなく、より専門的なジャーゴンとして助成財団関係者に広まっていた。
2.「フィランソロピー」という用語と日本
このジャーゴンを日本に持ち込んだのは、民間国際交流の礎を築いた財団法人日本国際交流センター(JCIE)の山本正である。
JCIEは1974に米国・カナダ主要財団・企業調査ミッションを送り、「フィランソロピー」の概念に日本の関係者に触れさせ、その後も幾度となくフォード財団、ロックフェラー財団等の関係者を日本に招いて「フィランソロピー」の概念を日本に広めた。このころまでは日本の財団関係者の目に触れる程度の用語に過ぎなかった。
しかし、1985年のプラザ合意以降、円高が急激に進んだころから、多くの日本企業が米国に直接投資し、米国内に工場を持つようにもなってくると事情が大きく変わっていった。こうした在米日本企業が米国の地域社会からの寄付要請にしばしば直面するようになり、日本企業もこの異文化体験に対応をどうすべきか悩んでいたのである。そこで、1988年には、JCIEは社団法人経済団体連合会(以下「経団連」という)と連携し、企業の社会貢献米国調査ミッションを実施し、経済界のトップ層に米国での企業フィランソロピーを直接学んでもらうことになった(2)。その結果、1989年には経団連が社団法人海外事業活動関連協議会(現:公益社団法人 企業市民協議会)を設立。海外進出の現地企業がフィランソロピー活動を行うための資金を本社から提供する場合であっても、特定公益増進法人の海外事業活動関連協議会をいったん通すことで、税制上の優遇措置が受けられる仕組みを作った。さらに、翌1989年には国際シンポジウム「米国地域社会における良き企業市民」をJCIEと経団連の共催によって東京で開催。デービッド・ロックフェラー、ソニーの盛田昭夫らをパネリストとして参加させた。バブル経済の最中、三菱地所がロックフェラーセンターを、ソニーが映画のコロンビアを買収したことが日米双方で「バイイング・アメリカ」として話題になった時期であり、その両国の当該企業トップがたまたま集まったこともあって、マスコミが数多く参加した。その中で、経団連の房野夏明常務理事が1パーセントクラブ設立を提唱、翌1990年に同クラブが実際に発足したのである。
3.「米国特殊論」と過去からの日本のフィランソロピー
以上のような用語に対する期待感から1990年は「フィランソロピー元年」と呼ばれるようになった。日本ではこのころ主として主導していたのは企業によるフィランソロピーであり、とりわけ、それはバブルの崩壊とともに急激に勢いを失ない、「フィランソロピー」という用語も、日本フィランソロピー協会などの地道な活動にもかかわらずに、一般社会へ十分に浸透する前に、「失われた10年」とともに消えかけていたのであった。
当時の一般的な捉え方は、フィランソロピーを象徴する助成財団という存在は米国において特異的に発達したもので、日本では発展しないであろうと言われていた。実際に、ヨーロッパにおいても、「財団」といえば、教会、孤児院、学校など「事業型の財団」が中心であった。助成財団が「欧米」(すなわち欧州と米国)で発達していたとも言い難く、単に「米国」に存在している不思議な組織だった。「財団」は欧州で古くから存在するが、「財団」というだけで「助成財団」を思い浮かべるのは米国やカナダくらいしかなかったのである。
米国の影響を非常に強く受ける日本では、1985年には米国の「財団センター」を模倣して助成財団センター(現:公益財団法人助成財団センター)が米国に次いで誕生した。欧州では日本に遅れること4年、わずかに7つの助成財団によって1989年に欧州財団センターが設立された。こうしたことも「フィランソロピー米国特殊論」の根拠の一つとなっていたのである。
しかしながら、「フィランソロピー」という用語に直結する言葉こそ日本になかったにせよ、同種の活動は古くから存在していた(3)。助成財団の活動という非常に狭義の意味だけではなく、同用語はボランティア活動をも含む社会貢献活動を表すものであり、この点においては、日本の歴史の中でフィランソロピーの動きやその組織母体となる非営利組織の源流を探ろうという人たちが出てきた。たとえば、聖徳太子の敬田院、施薬院、療病院、悲田院の四箇院をもって嚆矢とするなど、社会福祉の歴史とフィラソローを結びつける研究者や聖武天皇による大仏建立を民衆のフィランソロピーとみる研究者も少なくない(4)。今田忠は「フィランソロピー元年」とは実は「フィランソロピー・ルネッサンス」であると主張し(5)、日本の歴史の中からフィランソロピー的要素を取り上げ、必ずしも米国の影響だけによらないことを示した。
民法成立以降についても山岡義典らが、森村豊明会、原田積善会、服部報公会、旭硝子化学工業奨励会(現・旭硝子財団)、三井報恩会等のロックフェラー型の助成財団の存在を掘り起こした(6)が、情報公開や公文書管理が十分にできていなかった制度上の問題から、こうした研究も個別ケースの点と点を丹念につなぎ合わせた、氷山の一角にすぎなかった(7)。たとえば戦前の台湾や朝鮮半島を含め、日本のフィランソロピーの痕跡は実態が明らかになっているとはいいがたい(8)。とりわけ、旧来の財団の多くがインフレによって消滅したことから、多くの歴史が消えかけている。また地方においては、個人によるフィランソロピーの存在が明らかになっているが、光が当たっているとは言いがたい(9)。
さらに、いわゆるNPOとの関係でいえば、「講」や「結」などの組織との連続性もあり(10)、そうした組織への資金提供源としてのフィランソロピーの存在も日本の歴史の中で十分に指摘できる。
4.フィランソロピー黄金時代の到来
今世紀に入ると各国で財団関係の法制度が次々と新しくなった。
2003年のフランスのパトロネージ法の制定、イギリスの2006年のチャリティ法の改正、日本では2006年の公益法人制度改革関連三法の成立、中国の2016年の慈善法等々である。その後、欧州では法制度改正や企業財団の設立などにより助成財団が急激に拡大し、わずかに7財団でスタートした欧州財団センターは今や1万団体の会員を擁するまでになった。日本の助成財団センターに相当する組織も、例えば英国のACF(助成財団センター)など欧州各国、アフリカ、南米などでも作られている。
これらの動きとは全く違う形で、ウォーレン・バフェットとビル・ゲイツのフィランソロピーにおける世界的なリーダーシップが大きなうねりを呼んでいる。世界の10億ドル以上の資産家に、生涯でその半額を寄付することを宣誓する「寄付宣誓」を呼び掛けたのである。日本ではまだゼロではあるが、28か国231人にまで拡大している。
こうした動きに対して「フィランソロピーの黄金時代」という指摘まで出てきている(11)。グローバル化した市場により、大富豪が誕生しやすくなったことも背景にはあるが、そればかりではなく、ベビーブーマーを中心に富裕層が誕生し、これらの遺産がある程度フィランソロピーとして使用されていることも「黄金時代」の名称の背景にある。さらに、地球環境問題の顕在化や価値観の多様化に応じた企業のCSRやSDGsの関係での企業フィランソロピーの隆盛なども拍車をかけている。グローバル化した中で法人税や所得税による所得の再分配機能が十分に果たせなくなってきている今、フィランソロピーをどのように活用していくことになるのか、が大きな政策の中心的な課題となってきているとも言える。
こうした結果、現在では、フィランソロピーは米国だけではなく、英国や他の語圏にも広がっている。それを象徴するのは2019年パリで開催された欧州財団センターの設立30周年大会に「自由・平等・フィランソロピー」が掲げられたことである。フランスの国是である「自由・平等・博愛」に代わって、フィランソロピーの用語がフランスで掲げられたことは関係者に大きな驚きをもって受け止められた。これはフィランソロピーの米国特殊論が崩壊し、フィランソロピー普遍論を告げた意味を持つ。非営利セクターの中核に位置している「助成財団セクターの役割」=「最も狭義のフィランソロピーの役割」はますます大きくなっていくものと思われる。
注釈
(1)出口正之1993『フィランソロピー 企業と人の社会貢献』丸善
(2)社団法人経済団体連合会、財団法人日本国際交流センター1989「企業と地域社会 “良き企業市民”の条件」米国の地域社会における社会活動に関する調査ミッション報告
(3)中国ではphilanthropyに対して「公益」の漢字を当てている研究所がほとんどである。
(4)たとえば、今田忠編著2006『日本のNPO史――NPOの歴史を読む、現在・過去・未来』ぎょうせいなど参照。
(5)島田晴雄編著1993『開花するフィランソロピー 日本企業の真価を問う』TBSブリタニカ
(6)林雄二郎・山岡義典1984年『日本の財団』中央公論社、川添登、山岡義典編著1987年『日本の企業家と社会文化事業―大正期のフィランソロピー―』東洋経済など。
(7)財団法人を含む公益法人の名称が公表されたのは、平成に入ってからであり、昭和の時代まで公益法人の全体像は誰もつかんでいなかった。その点で、山岡らの丹念な調査は少ない情報を手掛かりに、過去の財団を掘り起こした貴重な業績である。
(8)たとえば、台湾の財団法では、第二次世界大戦まで日本人等が設立して残存していた財団の財産が台湾政府に引き継がれたことにより設立された財団も「政府捐助之財團法人」として含まれている。出口正之「台湾の財団法と日本への教訓」『公益・一般法人』No.1009号 2020年6月15日号
(9)たとえば、戦国武将として著名であった直江兼続は学問所禅林文庫を設立。近代後は山形県立米沢興譲館中学校(旧制)、さらに高校となり、その間多くの人の浄財による寄付が続いた。著名な民法学者であった我妻栄は500万円を寄付し、財団法人自頼奨学財団設立。現在でも同校生徒に対する奨学金を出し続けている。
(10)たとえば、出口正之2014「日本における民法施行前の『講』と現代非営利組織(NPO)との特性の共通点」国立民族学博物館研究報告 Vol.38 no.3 国立民族学博物館 等を参照。
(11)Havens, J. J& Schervish, P. G. (1999). Millionaires and the millennium: New estimates of the forthcoming wealth transfer and the prospects for a golden age of philanthropy. Center on Wealth and Philanthropy , Boston College. http://www. bc. edu/cwp.