共感なき寄付を考える

横浜市立大学客員研究員
瀬上 倫弘TOMOHIRO SEGAMI

略歴
 横浜市立大学大学院都市社会文化研究科博士後期課程単位取得退学、博士(学術)。博士論文タイトル「NPO法人のファンドレイジングにおける『共感メカニズム』についての考察-横浜市の事例研究からみた共感媒介要素と地域性-」。認定ファンドレイザー、社会貢献教育ファシリテーター。認定NPO法人こまちぷらす監事、認定NPO法人日本補助犬情報センター監事。本人に帰責性のない社会的弱者のエンパワメントが自身のミッション。研究テーマは非営利活動促進のための経済、政策、組織に関する考察とその体系化。

POINT
・共感を伴わない寄付も考えられる。
・カントは「義務の動機」からなされた寄付こそが道徳的な価値を持つと考えた!?
・寄付者の6割が抱く「社会の役に立ちたい」という思いは共感的な内面の現れ。

1.   ファンドレイジングと共感

 昨年このサイトで発表した前稿「ファンドレイジングにおける共感メカニズム」では、ファンドレイジングには共感を生み出す要素を盛り込んでいくことが必要であることを論じた。以下少し振り返っておく。
 プレゼンス、認知度の高まっているNPO法人ではあるが、その組織運営において資金不足が課題となり、資金獲得のためのファンドレイジングの効果的な実践が必要とされている。
 ファンドレイジングは、単なる資金集めの手段という意味を超え、社会課題への理解や共感を通じての資金獲得であり、活動資金の調達という結果のみならず、その手段において自団体の活動が解決を目指す社会課題への理解・共感といった要素が特徴的といえる。
 それでは、ファンドレイジングにとって必要とされる<共感>とは、いったいどのような現象なのであろうか。その構造(メカニズム)を先行研究から敷衍すると、次のような経路を導き得た。

<先行条件>
見る側の共感能力、見る側に反応を引き起こす状況の強さ、見る側と相手の類似性

<過程>
共感的な結果が生み出される特定のメカニズム

<個人内的結果>
個人内的な結果としての共感的な配慮

<対人的結果>
相手に向けられる行動的反応としての寄付

 これを認定NPO法人こまちぷらすが実施しているファンドレイジング「恩送りカード」を事例に検証してみると、その構造には共感メカニズムを見出すことができた。そこから演繹的に考えると、ファンドレイジングには共感を生み出すような要素を盛り込んでいくことが必要となり、その点を十分念頭に置いてファンドレイジングを実践する必要がある。

2.   共感なき寄付

(1)   ふるさと納税

 ファンドレイジングには共感を生み出すような要素を盛り込んでいくことが必要であるとして、寄付と共感という点に焦点を当てて考えてみると、「共感なき寄付」にみえる寄付も考えられるのではないだろうか。当該社会課題を解決することへの共感なく寄付をしているようにみえる場合である。読者の皆さんも読み進める前に少し考えてみて欲しい。
 例えば「ふるさと納税」はどうだろうか。ふるさと納税とは、自分の選んだ自治体に寄付(ふるさと納税)を行った場合に、寄付額のうち2,000円を越える部分について、所得税と住民税から原則として全額が控除される制度である。また、自分の生まれ故郷だけでなく、お世話になった自治体や応援したい自治体等、どの自治体でもふるさと納税の対象となる。「納税」という言葉がついているが、実際には都道府県、市区町村への寄付である (総務省ふるさと納税ポータルサイトhttps://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_zeisei/czaisei/czaisei_seido/furusato/mechanism/about.html  2023/5/5アクセス)。
 このふるさと納税に対する返礼品をめぐっては議論がある。寄付をした自治体から高額なお礼品が届くことがあり、それが地域の名産品にとどまらず、アルコール飲料や日用品にまで及んでいる。そうすると、自分の住んでいる以外の自治体を支援するという目的から外れ、中には返礼品目当てでふるさと納税を、すなわち寄付をする人もいるのではないかとも考えられる。自分の望む返礼品のためだけに寄付をするのではれば、これは「共感なき寄付」ではないだろうか。
 寄付とは対価性のない任意の金銭・物品の提供である。一方で、ふるさと納税は返礼品という対価が事実上認められており、本来の寄付とは言えないと解すべきであろう。返礼品の金額的割合が低い場合もあるが、やはり政策的な寄付制度なのである。

(2)   義務からの寄付

カントの「道徳的な人間嫌い」
 現在的なふるさと納税から一転し、次に哲学的な観点から「共感なき寄付」を考察してみたい。18世紀を代表する近代哲学の祖で知られるイマヌエル・カント(1724-1804年)の「道徳的な人間嫌い」[1]の考えからすれば、「義務の動機」からの利他的な行動、すなわち「義務の動機」からなされた寄付こそが道徳的な価値を持つことになる。そうすると、共感なき「義務の動機」からの寄付もあるのではないか。
 共感は、他人の意見や感情などに「その通りだ」と感じることと字義的には解釈されている。困っている人(あるいは社会課題)の話を聞き、同情や思いやりといった共感から、その人(社会課題)を助ける(解決する)ために寄付をする。その場合には、共感が動機となって寄付行為がなされている。しかしカントによれば、ここには道徳的な価値はないことになる。利他的な人間の思いやりは称賛と奨励に値するが、尊敬には値しないとされるのである。
 ここでカントが言う道徳的とは、行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図に依るのであり、自己が定めた法則に従って、自律的な行動をとることとされる。自律的とは、目的そのものを目的そのもののために選択することである。他者を助けるという善行をなすことで喜びを感じるという傾向性からの動機ではなく、ひとえに義務の動機から(そうすることが正しいから)の行動にのみ道徳的な価値が付与されることになる。可哀そうな人は助けるように教育されたから助けるとか、そうすることによって相手によく思われたいから施すのではなく、そうすることが正しいのでそうすべきという法則(定言命法)に従って行動することにのみ、道徳的価値が見いだされるとカントは説くのである(竹田 2010)。そして道徳的な行為についての義務を、「なさなくても別段非難されないが、逆になせば功績となる義務」(不完全義務)として、「なせば非難されるが、なさなくても別段称賛されない義務」(完全義務)と峻別する(中島 1997)。
 他人を助けることは義務だと考えていれば、そこに喜びや満足感といった傾向性が介在していたとしても、カントのいう道徳的な価値は損なわれないことになる。カント的考察からは、寄付には
①共感からの寄付
②義務からの寄付
③共感と義務からの寄付
の3類型が考えられることになる。カントによれば②は道徳的価値を持つが、①にはそれがないことになる。そして、共感なき寄付として②義務からの寄付が存することになる。

義務からの寄付
 観念的な話が続いたが、では具体的にどういった場合が、共感なき②義務からの寄付に当てはまるのであろうか。
 「困っている人は助けるべき」、「社会課題は解決すべき」など、そうすることが正しいという義務感には、多くの場合は思いやりや同情の感情が併存するが、そうではなくても、つまり「可哀想だから助ける」といった傾向性がなくても、「そうすべきだから助ける」との自律的な義務からなす寄付が、共感なき寄付として考えられることになる。極めて限定的な場合のように思われるが、例えば、会費的な要素を持つ寄付(共同募金や町内で集められる義捐金など)が近い性質を持っているかもしれない。当該地域の社会的慣習なので町内会費(あるいは義捐金)は払うが、共感しているというわけではなく義務だからやっている、といったケースである。これらは多分に政策的な要素も持ち合わせる。
 また、②義務からの寄付については、規範に沿っていることで行動せざるを得ないという動因にはなるが、自らの思想信条や価値観からの同意はない。しかしながらこれは、共感にはあてはまらないことになる。ファンドレイジングにおける共感とは、他者の感情状態を共有する感情的な反応であり、能動的な感情移入と考えられる。共感は、ある一定の価値判断への同意を意味し、価値観(~が美しい、~が正しい、~が美味しくない)であるがゆえに、同意に基づき、感情が伴うことになる。同意できるので、感情も刺激される。規範に沿っているからというだけで、他者の感情を共有しているわけではない。また規範に沿っているから行動するというだけで能動的に他者へ感情移入しているわけでもない。ある社会のルールを必要なルールだと思っていたとして、自分の思想信条や価値観から同意していない場合には、その社会のルールに基づいた判断に従っても、そこに共感はないのである。つまり、道徳や倫理は理性の機能であり、共感は感性の機能であって、互いに相容れない。カントの場合における義務からの寄付は理性の機能であり、共感を動因とするファンドレイジングは感性の機能であって、両者は異なるのである。
 共感なき寄付については、カントの哲学的特徴としての理性中心の思想が色濃く反映されており、理性ありきの議論となっている。また、カントは、道徳的であるとは自律的な行動をとることとするが、通常道徳的とは、思いやりや倫理観といった内容を伴うものと一般的には解されている。つまり、カントにおける共感なき寄付の議論は、感性を排除した理性中心の議論であり、道徳的であることも独自の定義がなされている。
 共感=憐憫・同情といった傾向性がないように見えても、そこには心の動きはあるはずである。心の動き、感性が影響を与えてるはずである。カントの言うように理性一辺倒に、自分の定めた規律に従い自律的に行動しているように見えても、そこには感性が影響を与えた心の動きがあるはずである。その点で、カントのいう理性のみの道徳的な寄付は想定が難しい。理性のみの一元的構成には限界が感じられ、感性の、あるいは感性と理性の二元的構成が寄付の動因となっていると考えられるのではないか。先の分類で言えば、②義務からの寄付も、①共感からの寄付や③義務と共感からの寄付のいずれかに還元されることになる。

「社会の役に立ちたいと思ったから」
 寄付行為には多くの場合傾向性、すなわちその人の性質として例えば習慣的に思いやりある行動をとるといった傾向が介在する。カントが想定する共感なき義務からの寄付は、極めて例外的な場合である。そうであるならば、寄付を集めるファンドレイジングを考える上では、傾向性に働きかける手法を検討すべきだと考える。つまりは、効果的なファンドレイジングを検証する上では、寄付とはどうあるべきかや、美しい寄付とは何かが重要なのではなく、どのようにすれば寄付が集まるのかが検証すべき要素となる。その点では、実際に寄付をした人たちの寄付の理由を参考とすべきであろう。
 この点、寄付を行った人へその理由を調査した結果(内閣府 2018)によれば、寄付を行ったうちの約6割の人が「社会の役に立ちたいと思ったから」と回答している。では、この「社会の役に立ちたい」という思いは、どう解釈すべきか。
 人は社会的な存在として社会との交点で自分の行動を正当化している。役に立ちたいとの思いは、社会の中での自己正当化であるかもしれない。あるいは、社会の役に立つということが自分のあるべき姿、なすべき行動であるとして自己実現の現れであるかもしれない。本人の内面的な要素としては、マズローの欲求5段階説[2]における承認欲求であるかもしれないし、あるいは自己実現欲求であるかもしれない。一方で、社会の役に立ちたいということの外面的な要素としては、市民社会における種々の社会課題・問題に対して、寄付という形で間接的に貢献し、解決することに関わるということである。そこには、社会課題に対する理解と共感が大いに関係すると考えられる。この外面的な意味合いから内面的な意味合いを照射すると、「役にたちたいので」という理由は、役に立つことが正しいことであるからというよりは、共感的な内面の現れであると解することが素直であろう。寄付は感性の領域であり、そこでは共感が重要なファクターなのである。

参考文献

内閣府(2018)「平成 29 年度特定非営利活動法人に関する実態調査報告書」
中島義道(1997)『カントの人間学』 講談社現代新書
Sandel,Michael J.(2010)Justice: What’s the Right Thing to Do? Farrar, Straus and Giroux(鬼澤忍訳(2011)『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』早川書房)
瀬上倫弘(2021)「NPO法人のファンドレイジングにおける『共感メカニズム』についての考察 -横浜市の事例研究からみた共感媒介要素と地域性-」横浜市立大学リポジトリ(https://ycu.repo.nii.ac.jp/)
竹田青嗣(2010)『完全解読 カント「実践理性批判」』講談社選書メチエ

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[1] 例えば、利他的な人間が人間性への愛を打ち砕かれるような不運に遭遇したとする。彼は人間嫌いになり、同情も思いやりもなくす。ところが、この冷血漢が普段の無関心さを脇に置いて、他人を助けに向かう。助けたいという思いはまったくないが、「ひとえに義務のため」に。このとき初めて、彼の行動は道徳的な価値を持つ(Sandel 2010)。
[2] アメリカの心理学者アブハム・マズローが提唱した理論で、人間の欲求は5段階のピラミッド(第一階層「生理的欲求」、第二階層「安全欲求」、第三階層「社会的欲求(帰属欲求)」、第四階層「承認欲求」、第五階層「自己実現欲求」)のように構成されていて、低階層の欲求が満たされると、より高次の階層の欲求を欲するとされる。