日本のフィランソロピー発展の「共進化」:多面的概念と制度ロジック論の視点を通した日本のフィランソロピー再考

ノースカロライナ大学(グリーンズボロ校)政治学部准教授
大西 たまきTAMAKI ONISHI

略歴
インディアナ大学Ph.D. (フィランソロピー専科、起業論・組織論副科)。全米公共テレビ放送NY局(大口寄付部)を経て現職。主な研究分野はファンドレイジング、フィランソロピー、社会起業理論および国際比較。“Japanese Philanthropy and Fundraising” (Association of Fundraising Professionals助成研究) 、「日本のNPO・NGOにおけるファンドレイズ機能とその発展ストラテジー」(東京財団・Indiana University助成)、米国公益信託とプランド・ギビング調査(平成17年・令和3年信託協会奨励研究)他、主要論文として”Venture Philanthropy and Practice Variations” (Nonprofit and Voluntary Sector Quarterly), Institutionalizing Japanese Philanthropy beyond National and Sectoral Borders (Voluntas) 等。2018年Academy of Management (Entrepreneurship Division) 社会起業研究論文賞受賞。

1. はじめに

 過去20年余における、日本のフィランソロピー促進への動きには目を見張るものがある。平成10年の特定非営利活動促進法施行以来、NPOの認証数は着実に増加し、その活動持続に必要な資金、特に寄付を調達する資金調達活動(ファンドレイジング)への必要性が高まった。近年の日本で特化される動きは、「個人」の寄付市場発展に向けた新たな支援組織やプログラムの誕生であろう。好例としては、より的確な個人寄付データを含む日本ファンドレイジング協会による『寄付白書』や寄付資金調達の専門職ファンドレイザーへのトレーニング・プログラムなどである。『寄付白書2021』でも、日本における2021年個人寄付総額は推計1兆2,126億円、2016年調査の寄付額7,756億円と比べ、5年間で150%以上の大幅増加を示している。
 しかし皮肉なことに、日本の寄付データの改善で諸外国との比較調査が容易となり、日本の個人寄付額の低さが再認識される事ともなった。特に米国の個人寄付(約34兆6,000億円)と比べると、その差は明らかである。こうした見解は今に始まったことではない。さらに『日本企業のフィランソロピーアメリカ人が見た日本の社会貢献(原題:Japanese Corporate Philanthropy)』を1990年に出版した London をはじめとし、欧米の有識者達からも、「日本ではフィランソロピーが欠如している」と厳しく批判されてきた。最近では、チャリティズエイド財団によるWorld Giving Index2021 にて、寄付額やボランティアの低さだけでなく、「助けを必要とする他人を助けたか」という項目で調査対象114カ国中のうち日本は最低に挙げられている。この結果で、日本には寄付額だけでなく、ボランティアや隣人愛などを含めた広義のフィランソロピーが欠けている、という認識がされてしまった。
 しかし、日本には本当にフィランソロピーが欠けているのだろうか。日本のフィランソロピーをその歴史や文化に沿った理解を促す研究は、日本に存在する(例:『フィランソロピーと社会』『日本型企業の社会貢献』)が、ここでは敢えて欧米の研究を基にして、日本のフィランソロピーの再評価と新たな動きへの将来の展望を考察したいと思う。

2.フィランソロピー概念の複雑性


 近年、フィランソロピーという概念を体系的に理解しようとする研究が進み(Daly 2012; Sulek 2010a, 2010b; 大西 2017)、フィランソロピー概念は「複雑性と多様な描写性」を内包(Daly 2012)、つまり、フィランソロピーの定義は社会文化、法制度、歴史的背景などで変化し、極めて困難である見解が出てきた。複雑性を表す例としては、「利他主義」と「利己主義」があろう。
 London (1990) は日本に個人のフィランソロピーが欠如している要因として、米国フィランソロピーが基とする「利他主義」や「人類愛」といった「見知らぬ他人で構成される公衆」への社会的奉仕活動の慣習が無い事を理由とする。日本人研究者・有識者の間でも同様の見方は強い(大杉 2012)。London はさらに、フィランソロピー概念の欠如が、1970年〜1990年代の米国で批判された、米国資産の買収ともみえる日本企業のフィランソロピーの原点にあるとまで結論づけている。
 日本人が利他的か利己的かの判断は別の議論として、ここでは研究を通して、フィランソロピーは多面的概念である事を強調したい。例えばBurlingame(1993)は、フィランソロピーとは Payton が定義するよう「公益を目指すボランタリー・アクション」であるが、そのアクションは主体を持つ個人によるものであり、よって「主体である利己を考慮にいれず、利他性のみに基づいてフィランソロピーを理解しようとするのは問題」で、「フィランロピーの定義は、利他主義(他者のため)と利己主義(己のため)の両方を考慮に入れて説明・理解されるべきである」と語る。同様の見解は、寄付動機に関する多くの研究(Bekkers & Wiepking, 2011)にもみられる。社会のニーズや他者への救済といった利他的動機以外に、寄付による恩恵対費用効果(warm- glow のような心理的な恩恵を含む)や社会的認知という利己的動機が寄付の根底にある。つまり、キリスト教に基づく利他性の有無がフィランソロピーを評価する上での決定要因ではなく、よって必ずしも日本のフィランソロピーが脆弱とは結論づけられない。
 近年のフィランソロピー分野で概念の複雑性の例としては、「非営利・公益」「営利・ビジネス」というセクターによる相反概念がある。特に最近の日本で営利と非営利要素を内包するベンチャー・フィランソロピーという新たなフィランソロピー発展の動きが活発化しているため以下、ベンチャー・フィランソロピーを基に考察を進めていく。